日本人初のメジャーリーガーをご存じでしょうか。
かつての野茂英雄がメジャーリーガーのパイオニアとして
海を渡ったことは有名ですが、
実はその前に海を渡った日本人が居たのです。
1964年にサンフランシスコ・ジャイアンツで
活躍した村上雅則?と思い浮かぶ方も
いらっしゃるかもしれませんね。
大正3年にアメリカでは「ジャップ・ミカド」と
呼ばれた選手が居たのです。
次項でジャップミカドの正体について触れていきます。
ジャップ・ミカドの正体は?日本人?

引用:早稲田大学
愛称 | ジャップ・ミカド |
本名 | 三神吾朗(みかみごろう) |
生年月日 | 1889年11月6日 |
没年月日 | 1958年6月24日(68歳) |
所属チーム | オールネイションズ(All Nations) |
ポジション | 外野手、遊撃手、投手、一塁手 |
学歴 | 早稲田大学、ノックスカレッジ |
三神吾朗は早稲田大学の野球部に所属していたようで
早稲田大学の文献には記録が残っているようです。
野球部部員でも足が速く、どのポジションもこなすことから
投手をはじめ、内外野を守るオールラウンドな選手だったそう。
三神吾朗はジャップ・ミカドなのでしょうか?
その前に、少しだけ日本に野球が
伝わった瞬間を見ていきましょう。
野球が日本に伝わったのは江戸時代が終わってすぐ?
日本に野球が渡ってきたのは
今から100年以上も前の1873年(明治6年)です。
江戸時代の滅亡が1867年ですから、
その6年後には野球というものが日本に伝わります。
東大の前身である開成校、当時の名称は
「第一大学区第一番中学」でしたが、
そこで数学や英語を教えていたアメリカ人の
ホーレス・ウィルソンという教師が、
日本人生徒にベースボールの
手ほどきをしたのが最初だと言われています。
この説に基づいた功績で、ホーレス・ウィルソンは
平成15(2003)年には新世紀特別表彰で
野球殿堂入りとなっています。
何故アメリカへ渡ったのか?

引用:世界の謎と不思議
三上吾朗氏は、日本の早稲田大学に入学し、
イリノイ州のノックス・カレッジへ留学をしています。
早稲田大学でも野球部をやっていたので、
留学後もノックス・カレッジの野球部に所属しました。
「この日本人選手こそは、わが大学チームの命であって、
彼が走塁を始めたら、もう誰もアウトにすることができない」
と当地の人に言わしめるほどの足の速さ、
そしてフィールディングの良さから
ノックスカレッジでも
野球部の中心選手となっており、
キャプテンを務めていました。
アメリカでの日本人の愛称は「ジャップ」ですから
そこで「ジャップ・ミカド」となったようですね。
そこでオールネイションズのオーナーの目に止まり
スカウトされることとなったわけです。
オールネイションズってどんなチーム?
オールネイションズは名前の通り
「All Nations」で、多国籍チームという意味です。
アメリカは当時、人種差別も強く
その風潮を打破すべく多国籍チームを作っていたわけですね。
そこに日本人である三神吾朗氏も所属した流れになります。
後にカンザスシティ・モナークスという名称になったようです。
メジャー伝説のサチェル・ペイジも所属した名門チームです。
何故誰も知らなかったのか?

引用:waseda.jp
彼は本当は夏休みの間だけ、ということで
オールネイションズに所属することになります。
どのポジションでもこなせる
オールラウンドプレイヤーとして評価され、
1914年から2年間、同チームで
プレイを続けていたそうですが
三神吾朗本人が誰にもその事を話さなかったそうです。
家族にも話していなかったようで、
日本の記録に載ることは無かったわけですね。
なので1994年にアメリカの公式記録から発掘されるまで
80年間、誰にも知られることが無かったわけです。
まとめ
日本人初のメジャーリーガーは野茂英雄でも
村上雅則でも無かったんですね。
現状では海を渡った野球選手は数多くいますが
まさか大正3年、それこそ
江戸が終わってすぐくらいのときに
野球選手になってる人が居るとは思いませんよね。
ここまで読んでいただきありがとうございました。